「いま何時だい」
咎めるような雰囲気を含ませた彼の声に構わずに、私はおまんじゅうを二つに割って、その一かけらをひょいと頬張った。
和菓子職人の彼が作ったおまんじゅうは、とても暖かな甘さを持っていて、私の頬はとろけそうなくらいに綻んだ。
「ちょうど三時ね」
「深夜のな」
そう、深夜三時。
草木も眠る丑三つ時は、少し前に過ぎ去った。
「三時といえば、おやつの時間じゃない。某お菓子の宣伝でも有名よ。カステラ一番電話は二番、三時のおやつはなんとやら」
「いま君が食べてるのはカステラじゃないだろう」
「じゃあカステラが食べたいわ」
そう告げると、私はおまんじゅうのもう一かけらを頬張る。
本当に美味しい。ついでに熱いお茶もあるといいのだけれど、目の前にあるのはお昼に買ったサントリーのウーロン茶だ。
私が彼の言葉に大した関心を示さずにお茶を飲んでいると、彼は頬を膨らませた。そういう彼の子供じみたところが私は大好きだ。この年になっても、こんなに子供みたいな顔ができる人間は、あんまりいないように思う。真顔で「俺は日本一のお菓子職人になるんだ」なんて言えてしまう人間であることを考えると、納得の人柄であるようにも思える。
「カステラは、専門外です」
「カステラもお菓子じゃない」
「洋菓子だけどな」
「日本に伝わったのは江戸時代よ。ラーメンが日本のものみたいなものなんだから、カステラだって日本のものみたいなものよ。和菓子職人さん」
「その理屈はおかしい」
「結局、何が言いたいのよ」
彼は眠たげに目を擦り、膨大な書きこみと美味しそうなお菓子の絵がびっしりと詰め込まれた『和菓子ノート』をめくると、私のお腹のあたりを見た。
「太るぞ」
失礼な。
これでも通勤には電動でない自転車を使っているし、ちょっとの荷物や距離ならバスやタクシーを使わずに歩くようにしている。お菓子は言わば、ご褒美だ。
私がそう簡単に自分を曲げないことを、彼はよく知っている。大体、先に折れるのはいつも彼のほうで、私はそんな彼との関係に、甘えている自分を発見して、申し訳ないと思うことがよくある。不満はないのだけれど、時々疑問に思う。これでいいのだろうか、と。
彼は優しくて、私は自分で言ってしまうくらい怠惰で駄目な人間で、まあ今まで大きな失敗もなくやってきたけれど、人間である以上、将来とか、未来とか、そういった予想し辛い未知のものに不安を感じてしまうのだ。
もしくは、彼の本心とか。
「寝る」
彼はぱたんとノートを閉じると、私を一瞥して椅子から立ちあがった。
その視線は、猫のような視線だった。
例えば、道端で出会った猫が私から逃げようとして背を向けて、私が立ち去ろうとすると、「追ってこないの?」と逆に聞いてくるような、目。もちろん、猫はそんなことを考えていないだろうし、私の勝手な代弁なんだけれど、彼はもちろん猫じゃないので、似ているという以上の、そこには猫とは違う人間の意思が介入する。哀願というか、何かを求めているような視線のように、私は感じた。
よくよく考えれば、なぜ私がおまんじゅうを摘んでいたかというと、彼が職場から帰ってきたときに、私におまんじゅうを渡したところから始まる。
適当な紙に包まれていたそのおまんじゅうは、彼が無愛想に「余った」と言って私に押し付けてきたのだ。無愛想だったのは、多分疲れてるんだろう、なんて勝手に解釈したのだけれど、今となって考えてみると、違ったのかもしれない。いや、疲れてもいたのかもしれないけれど、何かを押し殺していたようにも見えた。
――そういえば、いつもとアンコの味が違ったような。
ただの勘でしかない。
私は味覚審査員でもなければ、心理学者でもない。
ただ、彼との距離感という意味で言えば、私は、……多分他の人よりかは近いところにいる。そうでなければ同棲なんてしていないのだろうけど、うん、私は地球上で多分三番目か四番目くらいには、彼のことを理解している、と、信じたい。
彼がアンコを練るのが上手なことを知ってるし、彼が、実は駅前の喫茶店のジャンボパフェが好きなことも知っている。自分が和菓子職人であるという奇妙な偏見と、自分が男であるという古臭い偏見と、あと一人で食べるのには多いという理由から、私はよく彼に付き合わされる。……体重増えるの、私のせいじゃないじゃん。
いやいや、そんなことは、今はいい。
早くしないと彼が布団にもぐりこんでしまう。
「ねえ」
本当に、猫みたいに面倒くさそうに彼は振り向いた。
「なに」
「おまんじゅう、美味しかったよ」
彼が目を見開いた。
そんなところまで猫みたいで、なんだか見ていておかしくなった。
逃げようとした猫が、私の様子を見て、私は猫の期待(?)に答えるかのように猫を追いかける。猫は目を見開いて、
「……そか。……寝るわ」
逃げた。
ああ、本当に彼という人は、かわいくていじらしくて仕方がない。
そうか、今日早く帰ってきたのも、無愛想におまんじゅうを渡してきたのも、私がそれを早く食べないで置いておいたから苛々そわそわしていたのも、そういうことだったのか。
「ねえ」
「……なんだよ」
「明日、パフェ食べに行こうか」
「駅前の? あの、なんとかって喫茶店?」
「アローマ?」
「そう、それ」
「うん」
「ジャンボパフェな」
「うん」
彼は、我慢できなかった、という風ににやりと笑った。ずっと嬉しさを我慢していたのだろう。今にも瞼が落ちそうで眠たげな目と、にやりと笑った口というアンバランスな顔は、とても間抜けだった。おかしかった。
「おやすみ」
「うん、おやすみ」
彼は私が言い終わる前に、寝室に入ってぴしゃんと扉を閉めてしまった。
そんなに眠たかったなら寝れば良かったのに。
私は、なんて意地悪なんだろう。そんなことを考えて、またおかしくなった。
欠伸が出て、私も寝ることにした。
こんな時があるから、彼との関係に不安を感じながらも、幸せを噛み締めて生きていけるのだ。彼との甘い和菓子のような時間も、暮らしも、私は大好きだ。
翌日、なんとなく乗った体重計のせいで、ジャンボパフェは中止になった。
彼は拗ねて、一人でコーヒーを飲みに行ってしまった。
まんじゅうは、恐い。
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